You can make your own happiness!

旅と美味しいものが大好き。

睡眠は嗜好品か?

こんにちは。

 

みなさん、寝てますか?

 

私は、寝るのが好きなんだけど

仕事を始めてからは、睡眠時間が慢性的に足りてません。

 

◯時間寝ておけば大丈夫

 

とかいうじゃん。

 

なので、

寝ようと思えばいつでも眠れる

何時間でも寝ていたい…

っていう私も、まあそういうものかと思っていました。

 

でもね

最近悟った。

 

知るか!って。

 

あのね、やっぱり物事のベースは三大欲なんですよ。

食欲・睡眠欲・性欲ね。

この三つは、物事叶えますよピラミッドの土台にあたるから

これらを充分に叶えずして、いきなり新世界の神になろうとか無理なんです。

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あれがやりたい、こうなったらいいのに、

思うのはいいんだけど、

まずは自分を整えるのが、一番の早道。

 

そして、自分を整えるのに必須なのは

充分な睡眠、食べたいときに食べたいものを食べること。

 

寝たかったら、いつでも、何時間でも、寝たらいいんですよ。

寝たきりで過ごしたって別にいいんですよ。

 

休み切ったら、

また動けるし、

考えられるし、

アイディアも湧くでしょう。

 

だから、冒頭の問いの答えは

 

睡眠・休息は嗜好品ではなく必需品

睡眠すら充分に取れずして、

自分を愛するとか自分を信じるとか語るな。

 

ってことです。

これも、要するに

私のベクトルがよそを向いていた出来事の一つですね。

寝よう。そしてやりたいことやろう。

必要なものを探すんじゃない、必要ないものを排除していくんだ

こんにちは。

 

コンディションが良かろうが、悪かろうが

私たちは生きております。

いま、どのように在るか

また、どのように在りたいのか

その選択を常に行っているということです。

 

いま、自分がどれだけ余計なものを

抱え込んでいるか

気づいたら排除、ということを続けております。

 

思考、思い込み、「〜しなくちゃ」

これが贅肉のようにくっついていると

現実が滞るということを

身を以て経験してきたからです。

 

小さなものから大きなものまで〜♪

動かす力は、ヤン自分の中にあるのです。

 

と、たくさんの偉大なる先人が

おっしゃっております。

 

それは知識として知っていても、

自分のなかに

どれだけいらないものがあるか

自分がどれだけ

どうでもいいものを信じたり

恐れたり

気にしているのか

気づいているだろうか?

 

そこに気づいて、

まずそれを見る

排除あるいは書き換えをする

 

行動しながら、これを繰り返していく

 

心地良いものから

吐きそうになるものまで

様々です。

 

自分はこんなもの握りしめていたのか

これにいままで気づかなかったのか(逆にすげーな)

 

ということがいろいろある。

 

例えば、

最近は、自分が悪いと思わなければ

「すみません」、「ごめんなさい」を

一切言わないって決めているんだけど

これを決めてから

今までいかに、「すみません」連発していたのか

初めて気づきました。

 

あれ?

どっちかっていうと傲慢キャラで通っていたのではないのかw

 

多方面への配慮という名目で

どれだけ思ってもいないことを言っていたのかと

驚きました。

 

自分の言行不一致を責めているんじゃなくて、

これだけ、

「他人」の方向にベクトルを向けていたんだな

っていう気付き。

それで、

もうそれはいらないから、やめます。

と、自分に向かって言う。

 

それだけ。

それで、それを継続するだけ。

 

そういうことをやっていくと、

自分の中の違和感とか、

現実の不調和が少しずつ流れていく。

 

大小問わずだよ。

旅が好き

こんにちは。

憧れのプータローライフ、

リッチなプータロー生活への道筋が

なんとなく見えてきて、

スナフキン化に拍車がかかっているJuliaです。

 

夢は

「あの方なんだかお金持ちオーラ出ているけど

いつも遊んで…いえいえ、

優雅に過ごされているみたい。

一体どこからお金が出ているのかしら?」

な人になることです。

子供の頃の夢は

「値札を見ずに買い物できるようになること」

でした。

ルーツはあんまり変わんないね…

なんで真面目な職についたんだろうw

何事も体験ってやつですねきっと。

 

MünchenとDresden行ってきました。

(関係ないけどmacbookの予測変換すごい)

 

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寝たり、食べたり、散歩したりして、

過ごしていました。

旅に行ったからと

特別なことをするわけでもなく、

暮らすように、過ごすのが好きです。

 

旅行のなにが好きかっていうと

生活が究極にミニマライズされること、

瞬間に集中して生きている感覚があること、

かな、と思います。

 

好きな時間に起きる

なにしようかな?って考える

やりたいことはなんでもできる

なんでもやってみる

 

それは私にとって理想的な時間です。

だから私は旅行に行くとき、

基本的には事前に予定を入れない。

そのとき、自分のありたいように、過ごす。

 

雑念はもちろんあるんだけど

あれやんなきゃこれやんなきゃ

というところから離れて、

今なにをしたい?

今どうありたい?

っていうところに、自然にフォーカスできる。

肩書きとか余計なものを捨てて

いち個人として、在る

それが心地良いんだよね。

 

加えて、人とのふれあいだったり

予想外のハプニングがあったり、

不便さを楽しんでみたり。

そういうことが、面白く感じる。

 

今回だと、

あると思ったドライヤーがなかった。

買うこともできたけど、

せっかくだから自然乾燥生活やってみたら、

意外に大丈夫だったっていう。

なきゃと思っているもの、

実はなくても大丈夫とか、

そういう体験をするのも、楽しい。

 

これは

旅だから、じゃなくても

できることではあるんだけどね。

 

あっちこっちにフラフラしながら、

下半期も過ごします。

 

しょっちゅう食べに行っていたアイス屋さんのお兄さん(たぶんオーナーさん)

美味しい&珍しいフレーバーがたくさんあって

幸せでした😄

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違和感の原因

こんにちは。

 

ここのところ、周りの人から

家族関係のテーマ(葛藤とか、別離とかね)

について聞くことが多く、

一体なんのサインだろう?と思っていました。

 

母に会う機会があったときに、

その答えがわかった。

なにか違和感があって、

なんだろうと思うと、

あ、そうだ、

わたしは、今、本音で話していない。

そのことに、違和感を感じている、

と気づいた。

先日もちょっと書いたんだけれど、

わたしは自分の心を開示するのが苦手。

両親に対しても、

混じり気なしの本音では話していなかった。

 

家族関係がどうこうではなくて、

本音で、

上手い下手ではなく思うままを

開示しろよ、と、突きつけられたみたい。

 

じゃあ、と振り返ってみる。

一体なんでわたしは、「本音で話す」に

こんなに苦手意識があるんだろう?

 

そうすると、

わたしの認識では

本音で話す=争いになる

という思い込み

があるようだということがわかった。

 

まじかw

そりゃあ、話せないよね。

 

でも。

今後どうなっていきたいのか?というと、

わたしは、自分の風通しを良くしたい。

ちょっとずつでも、

スマートでなくても

(これも、わたしにとっては結構苦痛)

もっともっと、風通し良く、

軽やかな自分でありたいと思う。

 

偽り、までいかなくても、

今まで「配慮」の部分に

使っていたエネルギーが

別の部分に使えれば、

もっとスムーズになるだろうし、

なにより、ありのままでも、

自分を受け入れることができれば、

それってすごく、楽だよね。

 

だから、トライアンドエラーで、繰り返していく。

やれよwっていう自分と、

でもでも〜っていう自分と

どっちも一緒に。

ものごとの実現に必要なものはなにか?

ものごとの実現に必要なものはなにか?

概念の話。

 

ベースは

自分を知っていること。

その上で、

自分を信じられること

自分の考えを伝えられること

が車輪の両輪だと思います。

 

自分を知るということは

自分が何が好きで、何が嫌いで、

何をしていると幸せなのか

何を望んでいるのか、

ということを明確にしていくということです。

自分のアキネイターをやるということです。

レシピを決めずにスーパーに行くと、

無駄な出費と時間が必要になりますよ、という話です。

 

自分を信じるというのは、

自分の決断を信じるということと同義で、

やっぱわたしには向いていない、とか

やっぱ今はタイミングじゃないわ、とか言って

自分の決めたものから逃げない

ということです。

差し出されるものが見えなくなるし、

受け取れなくなる。

同時に、自分の決定したことに付随する諸々を

きちんと引き受ける覚悟を持つということです。

 

自分の考えを伝えるというのは、

もうそのままです。

ベッドの中でいかに壮大な物語を築こうと、

言葉にしなければ誰にも伝わりません。

人の力を借りるには、

そして自分自身が腰を据えるには

やっぱり言葉にすることが大事みたい。

神社で「これやりまーす、ヘルプおねしゃーす」っていうのと一緒。

そして、それは、本音であればあるほど、

伝わるもの、なんだね。

 

ことばのちから。

わたしは「伝える」ことがとても苦手なので、常にもがいている。

わたしの意図が伝わるように、ではなく

わたしが思っていることを、

作為なく伝えられるように。

相手がどう思うか、どう感じるか、

どのように考えるかという

自分の中での判断を超えて、

自分自身を、伝えることができるように。

 

いずれにしろ、「わたし」は

刻々と変化していくものだから

常に、自分との対話を続けるということが

大切なのだと思います。

とてつもないスケールで

成功している人、とか、

成果を出している人というのは

その純度がすごい。

自分の違和感を見逃さない。

自分自身から逃げることを許さない。

 

その姿を見て、わたしの中に、

怖れがあることに気づく。

同時に、その怖れを、もう超えていこう

と思っていることにも気づく。

 

結局は自分のこしらえた宿題と、

どう取り組みたいのか

自分と対話し続けるっていうことなんだよね。

 

わたしは究極、今この瞬間死んでもいいな

という瞬間の中に生きていたい

それは張り詰めた緊張ではなくて、

静かな充足感だと思うんだ。

そう在るように、生きていこう。

 

判断基準は快であるか不快であるか

おはようございます。

 

今朝は寝坊しましたが、間に合いました!

私はこの利便性にお金を払っていて、

得られるものに対して大変な幸せと満足を感じています。

 

と、まだまだの寝ぼけ眼で拙い英訳のような文章を書いています。

 

今日の夢で、何回も何回も同じフレーズを見た気がして、

それをなんとなく、覚えている範囲で反芻している。

 

特に繰り返されていたのは、

 

善悪は存在しない

全ては自分がどう見るかであり、

自分自身の快不快の判断しかない

 

っていうことだったように思う。

 

前も書いたけど、

結局、物事の判断の基準は、

自分にとって、快であるか不快であるかのふたつ。

 

夢の中で私は問答していて、

じゃあ中間はないのか?

日本人が愛するところの曖昧文化、

グレーゾーンは存在しないのか?

って聞いたんだよね。

そうしたら、

好きな食べ物に理由はあるか?

なんとなく嫌いなものに理由はあるのか?

と問われた。

〜であるから、好き(あるいは嫌い)

〜であるから、好きであった方が良い

このように理由を加えている時点で、

それは自分の純度を大変下げているということだ。

自分自身の感じたものを、信頼していないということだ。

 

といわれて、そうだなあと納得した。

〜であるから、の部分というのは、

大抵よそからもたらされた情報だったりする

自分で感じたことでは、ないんだよね。

 

自分の感覚を信じること

そしてそれを、混じり気なしに、伝えていくこと

それがとても、大切なこと

 

そんなことを夢問答で改めて認識したのでした。

もとをとろうとしない、ということ

元を取ろうとしていませんか?

 

遠くまで来たんだから…

お金払ったんだから…

ここまで待ったんだから…

折角会ったんだから…

 

お腹いっぱいなのに食べる

見たくもないものを見る

別に興味もない話をする

愛想笑いをする

 

あれ?これがしたかったんだっけ?

私はどうなりたいんだろう?

なんだかよくわからなくなって混乱…

 

思い出してください。

「もとをとる」のが目的なのでしょうか?

美味しいものを食べたい

有名店に行きたい

憧れのブランドの服を着たい

それらの目的を、さらに掘り下げると

いい気分になりたい、とか

愛されたい、

幸せになりたい、

快適にありたい、

といったところに、集約する気がしています。

 

物質というよりは経験、あり方の話です。

 

経験をする。

ふと思考を切り替えて、

その場、を味わうことに集中してみてはいかがでしょうか。

今を感じる、と置き換えても良いかもしれません。

 

どうなりたくて、今こうしているのか?を思い出してください。

今この瞬間、自分がなにを感じているか、に集中してください。

 

ケーキバイキングで全種類食べられなかった。

お金を払ったのにもったいない!なのか

いつもよりいろんなケーキを食べられた、

普段来ない場所に入れた、

友達と一緒におしゃべりできて楽しい!なのか。

 

結果ももちろんです、

過程も「得たもの」であります。

経験そのものが、大きな「得たもの」です。

望んでもいないのに

「折角だから」で自分の中に押し込むことは、

この先にはそれが現れないものだ、

自分の身の丈には合っていないものなのだ、と

自分で言いふらしているようです。

 

いい気分になるため、幸せになるため、の行動で

自分の首をしめるのは、もうやめませんか。